収骨

時は明治時代、明治維新により新しい体制となった明治政府は

明治元年に神仏分離令を出し、

祭政一致の理念の下に、千年以上にわたって習合されてきた神と仏を分離し、

神道国家の道を歩み始めました。

この頃の全国の火葬率は30パーセント程度でしたが、

火葬の設備は前近代的なもので、火葬時に煙がモクモクと出て

異臭が漂うことから、近隣住民の健康を害している事が問題になり移転を検討した際に、

神道派の「火葬場移転を認めるのは仏教が推進する火葬を認めたことになる」

との意見により、明治6年に「火葬禁止令」を出し、全て土葬になりました。

火葬は仏教思想に基づくものだと思われていたからです。

仏教では釈迦も火葬されましたし、

我が国では文武4年(700)に僧道昭が火葬されたのが最初だと言われています。

また、火葬することを「荼毘に付す」と言ってパーリ語由来の仏教用語なのです。

ところが特に都市部での土葬用の墓地の不足と言う事態が深刻になり、

明治8年には火葬禁止令が廃止されました。

この時に火葬が再開され、同時に火葬された遺骨は

全て持ち帰るよう通達があったのです。

そのため明治政府のお膝元である東京ではその通達を守り、

関西では火葬場の立地が、墓地の敷地内や墓地に隣接することが多いため、

火葬後そのまま埋葬することが多く、一部しか持って帰らなくなった。

ということは、関西での火葬では、本来骨壺は不要だったということになり、

持ち帰る分は、本山への納骨用などに、

ほんの少しだったということであれば納得出来ます。

このような理由で関東と関西では収骨の仕方が違うのですが、

今では関西人は関西人で、それが当たり前だと思っていますし、

関東人も然りなのです。

遺骨が全部揃っていないと成仏しないと考えている人でしたら、

関西で火葬したら成仏しません。

遺骨をあちこちでお祀りすると故人の霊が迷うと思っている人でしたら、

お墓と本山に納骨したら迷ってしまいます。

このように常識だと思っていることを変えていくことが

これからの時代の葬送に必要なことなのです。

喉仏供養のような葬送の形が必要になってくると思います。