関西-収骨

私の師匠のお葬式に行った時のお話です。

生前中には大変にお世話になったといいますか、

ご迷惑ばかりお掛けしておりまして、何の恩返しも出来なかった訳ですが、

2017年10月に倉敷まで行き、お葬式のお手伝いをさせて頂きました。

斎場にて

大僧正でしたので、参列者の方も多く、大変に立派なお葬式だったのですが、

斎場で火葬されるのは誰しも同じことで、

収骨のアナウンスがあり、収骨室に向かいますと、

火葬が済んだばかりの台車に遺骨が載っています。

台車の上と周りには骨壺と収骨用の道具が置かれ、職員の方が説明していました。

以前から知ってはいましたが、収骨用の骨壷の小さいこと、

こんな骨壺には絶対に全部の遺骨が入らないという、5寸の壷でした。

まずは足の所から、そして腰、という順番で皆に遺骨を入れてもらい、

最後には喉仏、頭蓋骨を入れるのですが、

体の要所要所の小さな骨ばかり入れるので、

台車を見てみると、まだほとんどの遺骨が残っているという感じなのです。

個人的には私の大切なお師匠さんのお遺骨を残してどうするの?

と言いたい気分でした。

残った遺骨は

職員の方の説明によりますと、残った遺骨は寺院などで供養されて

丁寧に埋葬されるとのことでしたが、収骨した分よりも、

残された遺骨の方が圧倒的に多いのです。

そしてさらに不思議でしたのが、

参加された皆さんがその光景に関心が無いというか、気にしていないのです。

遺産相続などでは裁判沙汰になるような遺骨の争いもありますが、

こんなに無頓着において帰っていいのかなと思うほど、

改めて目の前で見ると衝撃的な光景でした。

持って帰る遺骨にこそ意味がある

ここで一つ言えることは、骨壺に入れて持って帰る遺骨にこそ意味があるのであり、

置いて帰る遺骨には意味が無いのであると。

遺骨を骨壺に入れる真の目的は、故人の魂を斎場から連れて帰ることであり、

それは、皆が立ち会って皆の気持ちで、

声を掛けながら遺骨を骨壺に入れるからこそ魂が入るのであり、

それをしなかった遺骨は故人の魂が入っていないから、

置いていっても何の問題も無いのです。

葬儀の本質

葬儀とは故人の魂を天に送ることであり、鎮めることでもあります。

これは私が宗教者だから言えることですが、

NPOに於いては宗教活動はしていませんが、

高野山真言宗という立場で宗教活動をしています。

魂を送ったり鎮めたりは宗教者の仕事ですが、

家族や親族などの協力が是非とも必要になってくるのです。

たとえ葬儀が簡略化されたとしても、

このように大切なことだけは抜き去ってしまいますと、全く意味がありません。

こだわりを捨てる

関東に住んでいれば、亡き人の遺骨を全部、

巨大な骨壺に入れて持ち帰るのが当たり前だと思ってしまいますが、

実は当たり前ではないのです。

しかし、全部捨てて粗末にすることをおすすめしている訳ではありません。

大切にすべきは大切にして、捨てるべきは固定観念なのです。

喉仏供養エンターはただ喉仏を残すという単純なものではありません、

魂を移すという大切な供養法が存在するのです。