収骨

火葬は平等に受けられる住民サービス

火葬というものは、日本国籍を有する者が、

貧富の差に関係なく平等に受けられる住民福祉サービスであり、

日本国内であればどこに住んでいようとも同じサービスを

受けることができるようになっています。

例えばホームレスの人であっても、行旅死亡人であっても

皆平等に受けられるサービスなのです。

逆に裕福な人が自分だけ特別な火葬炉にしてくれと言っても

そういう特別仕様が無いという意味では平等なのです。

平等と言うことは、何処でも全く同じはずなのですが、

実は関東と関西では違いがあり、

ここで言う関西とは愛知県、岐阜県、近畿、中国、四国、九州地方です。

亡き人を火葬炉で焼却する仕方、及び火葬が終了して台車の上に骨が載って

出てくる所までは大差ありません。

遺骨は喉仏だけ残せばよい-喉仏供養のすすめエンター

収骨の違い

関東と関西では何が違うかと言えば、遺骨を骨壺に入れる収骨の仕方が違うのです。

関西では3~5寸程度の骨壺に収骨し(部分収骨)、

関東では7~8寸の骨壺に収骨します(全量収骨)。

骨壺のサイズは尺寸法で表し、1寸は約3cmですので、

7寸の骨壺とは、直径約21cmの骨壺のことです。

骨壺の大きさ

大人の方の遺骨の重量は約2~3kgあり、

全て骨壺に納めるためには7寸程度の骨壺が必要です。

5寸、或いはそれ以下の骨壺でしたら、全部の遺骨を入れることは不可能です。

関東では遺骨を全部骨壺に入れて持ち帰るための大きめの壷を準備するのに対し、

関西では遺骨を一部持ち帰るための骨壺を準備するようになっているのです。

関東式の収骨

関東式-収骨

関東では最初から大きめの骨壺が準備されていますので、

職員の方の指示により、遺骨の足から順に腰、腹、胸と収骨し、

最後に喉仏、頭蓋骨を入れますが、

とにかく全部入れるように職員の方がフォローして、

一番最後には刷毛と塵取りで遺骨の粉まで全部集めて入れてくれるので、

遺骨の乗っていた台車には、ほとんど何も残っていない状態です。

関西式の収骨

関西式-収骨

関西では大きくても5寸程度の骨壺に納めることになります。

もっと小さくても大丈夫です。

また関西では小さめの骨壺を別に準備して、

分骨したお遺骨をお寺の本山に納めるということもよくあります。

職員の方の指示により、遺骨の足から順に腰、腹、胸の一部を収骨し、

最後に喉仏、頭蓋骨の一部を入れますが、

台車の上には遺骨がほとんど残ったような収骨になります。

残った遺骨は

関西では残った遺骨は寺院などで供養をした後に

決められた場所に埋葬するそうです。

祭事用の職員の人もこれだけはちゃんと説明しています。

遺骨が全部揃っていないと成仏できないと思っている人がいますが、

もし成仏できないとしたら、関西で火葬された人は皆成仏できません。

何故このようになったか

明治神道

時は明治時代に遡ります、明治政府は明治元年に神仏分離令を出し、

祭政一致の理念の下に、千年以上にわたって習合されてきた神と仏を分離し、

神道国家の道を歩み始めました。

この頃の全国の火葬率は30パーセント程度でしたが、

火葬の設備は前近代的なもので、火葬時に煙突から煙がモクモクと出て

異臭が漂うことから、近隣住民の健康を害している事が問題になり移転を検討した際に、

神道派の「火葬場移転を認めるのは仏教が推進する火葬を認めたことになる」

との意見により、明治6年に「火葬禁止令」を出し、全て土葬になりました。

火葬は仏教思想に基づくものだと思われていたからです。

ところが特に都市部での土葬用の墓地の不足と言う事態が深刻になり、

明治8年には火葬禁止令が廃止されました。

この時に火葬が再開され、同時に火葬された遺骨は

全て持ち帰るよう通達があったのです。

そのため明治政府のお膝元である東京ではその通達を守り、

関西では火葬場の立地が、墓地の敷地内や墓地に隣接することが多いため、

火葬後そのまま埋葬することが多く、一部しか持って帰らなくなった。

ということは、関西での火葬では、本来骨壺は不要だったということになり、

持ち帰る分は、本山への納骨用などに、

ほんの少しだったということであれば納得出来ます。