最近は映画やドラマ、ニュース、雑誌の特集などで散骨がクローズアップ
される機会が増えてくるにつれ、散骨っていつ頃からされていたのだろうか
という素朴な疑問が湧いてきます。
わが国では古くから放るという習慣があり、ほうむる(葬る)は、ほうる(放る)が
語源になったと言われています。遺体の処理として、野山に捨てることが
ごく普通に行われていたのです。
しかしこれは生身の体をそのまま自然に還すという方法で、散骨とは
火葬した遺骨を粉にして散布することです。
わが国では歴代天皇の中で唯一散骨した天皇の淳和天皇が、
平安時代に現代の散骨と同じ方法で散骨を実践されています。
淳和天皇の散骨には時空を超えた素晴らしいメッセージが込められています。
現代の私達に是非とも必要な、他を思いやる気持ちです。
没後に大きな古墳などを残さなくとも、大きなメッセージを残されているのです。
この事実を是非多くの方に知って頂きたいと思います。
淳和天皇(786~840)は葬送の簡略と散骨を遺詔し
没後はそれに従って山中に遺骨が撒かれました
淳和天皇とは
桓武天皇の第三皇子で母は藤原百川の娘旅子であり、
大同5年(810)の薬子の乱後、嵯峨天皇によって皇太子となり、
弘仁14年(823)に即位しました。嵯峨上皇の支えにより、
平安遷都4代目の治世は安定し、穏やかな日々が続きました。
上代より行われてきた葬送の儀式は、権力者の力が大きくなればなるほど盛大に行われ、
それにかかる費用と年月は、民衆の生活を圧迫し、苦しめるものになっていました。
大化2年(646)に出された大化の薄葬令は、貴族や豪族に対し、
膨大な費用と労力をかけて行う葬儀を簡略化し、
民衆の窮状を救うことを目的に発令されました。
持統天皇(645~702)は最初に火葬された天皇ですが、
自らの葬儀に関しては「政務はいつもの通りに行い、喪葬はつとめて倹約し、
簡素にすること」と遺詔しました。民衆の窮状を救うために、
自らの葬儀を簡略にすることを願ったのです。
そのような流れを受けて、淳和天皇は自らの葬儀に関し、
「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔し、
没後は近臣によって遺言通りに火葬をし、遺骨を粉砕して西嶺上山中に散骨したのです。
京都市右京区の小塩山山頂(標高642m)にある「大野原西嶺上陵」は
淳和天皇を祀る古墳として、宮内庁管轄となっています。
また麓には淳和天皇を火葬したと伝えられる「淳和天皇火葬塚」や、
淳和天皇の柩車を納めたという伝承の残る「車塚」などの古墳が点在します。
2012年10月3日の神戸新聞夕刊より